遠別町字中央神社祭にお邪魔してきました
遠別町中心街から車で約10分ほど進んだ先にある集落、中央集落の神社祭にお邪魔してきました。中心街から少し離れるけど中央。そんなちょっと不思議な集落。
今回、神社祭に参加して集落の今までとこれからを少しだけ聞かせて頂きました。
中央地区のはじまり
そもそも、この中央という地区の始まりは明治30年、愛知県からの団体入植からはじまりました。
当時、愛知県は人口過剰な上農耕地が少なく農民の生活が困窮している状況。さらに大洪水によって農地が営農困難となって新天地を求めて北海道の地を目指したとのこと。
大いなる希望を抱き、名古屋市熱田港より乗船し〜(割愛)〜初山別でひとまず旅装を解いた一行は女子供を残して翌日(3月26日)男子は歌越別に向かったが初山別〜歌越別間の四里(約15.7km)の道も地理不案内のため未開の地を歩いたので、その日のうちに目的地にたどり着くことができず、大木につかまったままで野宿した。《遠別町史より抜粋》
団体入植当初の様子が町史に事細かく記載されています。遠別町の開基は明治30年。中央地区のはじまりと遠別町のはじまり。
神社祭が始まりました
遠別町中央地区で人の生活がはじまり、建てられた中央神社。神主さんの儀礼も終わり、2015年の神社祭が終わりました。その後は神主さんも交えての直会(なおらい)。お酒やオードブルがテーブルに広げられます。
神様の前で酒盛り。
飲みながら、神主さんから参拝時の正式な参拝作法を教えて頂きました。いつもなんとなく見様見真似でやっていた二礼二拍手一礼ですが、当然ながらしっかりとした意味を持っていました。
拍手の際、胸の高さで掌を合わせて右手を少し下にずらして二拍。その後、指先を再度合わせて祈りを込めてから手を下ろす。
掌を下にずらすのは、神と人とがまだ一体になっていないということ。二拍で神様を招き、その後ずらした指先を戻し掌を合わせることで神と人が一体となって、神の力を体得するから、とのこと。
遠別町の第二次地域おこし協力隊である、農援きっとのお二人も参加していました。農家のお父さんも楽しそうな表情。
話題は神社祭の存続の話へ
遠別町でも過疎や少子化、後継者不足は明らかに進んでいます。そうして人が少なくなっていく地区では年間行事の個人負担が少しずつ増えていきます。地区を支えてきた人たちも加齢が重なり、負担とその受け皿のミスマッチがどんどん大きくなる。
いよいよ実施が困難になってから、存続の是非を考えるのでは手遅れ。まだ少し動けるうちにどのような形で残すのか、それとも廃止にするのかを考えなければなりません。
まだ少し先の話ですが、今後神社祭がどうなっていくのか地区に住む方々で話し合い。
《諦め》ではなく《決断》であってほしい
形は変わっても関わる人の思いが同じであれば、そのものが持つ意味は大きく変わりません。その時代、その状況に応じて形を変えながらも続けていくことが大切なように感じます。
最初の年、団体員及びその家族は日ごとに増す飢えと寒さ、不安と戦いながら粟と稲きびの糊のようなおかゆで、その日その日の命をつなぐ有り様だった。
十二月の末頃から大時化のたびごとに海岸一帯に昆布が打ち上げられたので、慣れぬ吹雪も構わず命がけで拾い集め煮付けて食べ、また柳に生えた秋茸のひからびたのを採ったり、雪を掘り取り残したキャベツの残り葉を食べるなどじつに言語に尽くせない苦しみを耐え抜いたものであったという。
この先過疎化が進み地域を形成し続けるのが困難になってしまった時、この地域に執着してしがみ付く必要があるのかどうかわからないけれど、決断をする際にはご先祖様のことも少し思い浮かべよう。